廃村への旅【山形県上山市泥部】
今日は山形県上山市の廃村へ行って来ました
ここの集落も毎年訪れていますが、こんな晴れている時に来るのは初めてです。
とにかく暑くて撮影どころじゃないです
バイクにつけてたiPhoneは熱で死亡しましたし
一歩間違えば私も逝ってしまいそうです
さて、この廃村の泥部(どろぶ)
山形市内から車で約二十分ぐらいで行ける
比較的行きやすい廃村です
泥部を訪れるとまず最初に「泥部の碑」が出迎えてくれます
その碑に書かれている内容
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泥部は下生居村の枝村として、万治二年(一六五九年)に上山藩の
「どろぶ山御用御畄山」の山守として五戸が移住したのににはじまる。
山畑や沢水を引いて開田した僅かな土地を耕作し、薪・木炭づくりを生業とした
天保十四年(一八四三年)に下生居村庄屋尾形権左エ門が、冷水山の谷水を引いて坊平から泥部へ通水する
泥部堰(権左エ門堰)を完成してから開田が進み戸数も倍増するに至った。
大正以後養蚕も盛んとなり 昭和七年には道路も県道に改修されて戸数十三戸、人口百余名と増加し仝二十五年には冬季分校も開設されるまでに発展した。
「どろぶ山御用御畄山」の山守として五戸が移住したのににはじまる。
山畑や沢水を引いて開田した僅かな土地を耕作し、薪・木炭づくりを生業とした
天保十四年(一八四三年)に下生居村庄屋尾形権左エ門が、冷水山の谷水を引いて坊平から泥部へ通水する
泥部堰(権左エ門堰)を完成してから開田が進み戸数も倍増するに至った。
大正以後養蚕も盛んとなり 昭和七年には道路も県道に改修されて戸数十三戸、人口百余名と増加し仝二十五年には冬季分校も開設されるまでに発展した。
その後昭和末期からの急激な社会の変動と生居川ダムの建設等にともなつて次第に過疎が進み 昭和五十八年には全戸が離村するに至った
茲に開村以来三百三十五年、度々の冷害や豪雪にも屈せず、
村づくりに励んで来た祖先の労苦を偲びこの碑を造立して
その業績を後世に伝えようとするものである
村づくりに励んで来た祖先の労苦を偲びこの碑を造立して
その業績を後世に伝えようとするものである
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だそうです。
廃村になってから既に30年以上経っていますが
建物は比較的綺麗です
一昨年あたりまでは、田畑がまだ耕されていたので
元住民の方が建物を管理していたのでしょう。
集落は円状の道に沿って家が建っています
立派な蔵もあります
小屋の中を拝見
蔵
土壁もだいぶ崩れています
次のお宅へ移動
お向かいさんは崩れ始めました
道が草で覆われてしまいましたが、
この道を進むと蔵王エコーラインへ抜けられます
この道を進むと蔵王エコーラインへ抜けられます
でも、もう車では抜けられませんね....バイクも厳しいかな
倒れないで立つ、根性のある梁
この村は家紋付きの家が多い
この戸は使えそう
なぜか一部、地面を掘り返した跡があります
しかも人一人分埋まるぐらい....
ちょっと怖いです
さて、村を一周したので帰ります
今日のお供は、カワサキ・エリミネーター
やっぱりこのバイクだと山道はキツイ...
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こんな写真を撮ってるカメラマンがいる写真館は
普段は人物撮影をしています
よろしければお店に遊びに来てくださいね
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空、無加工でこんなに青いんですか!? すってき~~~!
返信削除いや、写真データを補正して強めに色を出してます(染めてはないですが)
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